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HOSTORY OF JAPANESE TATTOO HOSTORY OF JAPANESE TATTOO

江戸時代の天才浮世絵師、歌川国芳(一勇斎国芳)の作品は模写され盛んに刺青となりました。江戸末期には政治が乱れ、歌川国芳がそれを浮世絵で風刺し、その刺青を入れるのが流行ったようです。彼らは刺青で幕府の悪政と腐敗を呪ったのです。

紀元前5,000年頃
日本で発掘された縄文土偶にあしらわれた「タトゥー」が認められ、これが記録されている『世界最古のタトゥー』であると主張する考古学者がおります。

新聞記事によりますと、続く弥生時代にあたる3世紀頃の倭人(日本列島の住民)について記した『魏志倭人伝』の中には「男子皆黥面文身」との記述がありますが、この”黥面”とは顔に刺青を施すことであり、”文身”とは身体に刺青を施すことを指しております。つまり 「縄文時代の日本人男子は大人も子供も刺青を顔や身体に入れていた」という事です。これが日本の刺青についての最初の歴史的な文献記述であるそうです。

『魏志倭人伝』と後の『後漢書東夷伝』には、
「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」(魏志倭人伝)
「諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差」(後漢書東夷伝)

と、共通した内容の縄文時代の日本の刺青に関する記述が存在し、刺青の位置や大小によって社会的身分の差を表示していた事や、当時の倭人(日本人)諸国の間で各々異なったデザインの刺青が用いられていた事が述べられています。
魏志倭人伝では、これら倭人の刺青に対して、中国大陸の揚子江沿岸地域にあった呉越地方の住民習俗との近似性を見出し、『断髪文身以避蛟龍之害』と、他の生物を威嚇する宗教的な効果を期待した性質のものであるとも記されています。

やがて日本列島における先住民族であると言われている”蝦夷”(えみし)などの人達が継承していたと思われる伝統的なタトゥーは、律令国家の成立を目論む朝鮮系の渡来民の大和朝廷によって禁じられるようになり、山岳密教系の修験者などによってアンダーグラウンドに受け継がれてゆくようになります。山岳仏教の修験者達は密かに仏教マントラや呪文などを身体に刺青したようです。
(この習慣は現代のタイなどの仏教国でも伝統文化として継承されています。)

日本のタトゥー

日本の先住民アニミズムの名残を色濃く残す日本神道においては、タトゥーを施した身体には神が降り、神が降りた身体には特別な力が宿ると信じられていました。
この伝統を受け継ぎ、江戸時代の侍達は切られぬよう願掛けするために好んで刺青を入れるようになってゆきます。
そして武家彫りという伝統的なタトゥーの様式が生まれました。
また、漁師、大工、火消し、飛脚など肌を露出する職業の民衆にも、"一生をその職業で精進するための誓い"としてタトゥーが好まれるようになり、江戸中期には"人前に肌をさらす人間には入れ墨がないと恥"と感じ始める程のストリートカルチャーとして成長してゆきます。

一方で、縄文人と文化的関係が深いとされる日本の先住民族、蝦夷やアイヌ民族、琉球民族の間にも民族固有のトライバルタトゥーのカルチャーが存在していました。

日本のタトゥー

沖縄本島では婚礼前の14歳くらいから大人になるための儀式としてタトゥーを施し始め、加齢に伴って少しずつ文様を増やしてゆく風習が受け継がれていました。
かつての琉球王国では「ハジチ・パリツク」と呼ばれた刺青文化があり、ハジチは女性のみが行い、倭人にさらわれないための魔よけや後生(死後の世界)への手形とする民間信仰として、また成人への通過儀礼としての意味もあり、同時の美しさの象徴ともされていました。
文様には地方によって微妙な違いがあり 、両手に23の文様を彫り込み終わった時が完成とされ、その時が結婚適齢期と信じられていたようです。
文様のそれぞれには"太陽"や"矢"といったさまざまな意味がこめられていました。
当時、困窮に喘いでいた宮古島の場合には、手背や前腕に、米のご飯をたべる女性に育って欲しいという願いを込めた文様として"食器""箸"などを彫る文化が有りました。

また、日本の先住民族の子孫とも言われている北海道アイヌの間では"母が娘へ"そして"父が息子に"刺青(刺青)=タトゥーを施す習慣が我が国でも最も最近まで残存していました。
"母から娘に授けられるタトゥー"では娘の幸福や健康、死後の世界での幸福を願う心を込めて、父から息子に授けられるタトゥーには、狩人にとって大切な「弓の腕が上がるように」、そして健康への願い、死後の世界での幸福などの切実な願いが込められ、美しい文様が表現されていたそうです。
しかし1,872年3月29日、明治政府は欧米列強から野蛮と思われかねない伝統的な習慣・風俗を禁止するとして、日本における様々な伝統的刺青(入れ墨):タトゥーを禁止。
当時、入れ墨は庶民の間でも水面下でかなり普及していましたが、アイヌ民族と琉球民族が固有の文化として継承していた入れ墨を禁止する事で、「日本人」にとけ込ませようとする「同化政策」が取られたのを期に、全ての日本国民からタトゥーカルチャーが取り上げられる動きとなります。

日本の先住民族タトゥー

しかし1948年、敗戦後を契機にして米軍GHQ主導で公布された新軽犯罪法によってタトゥー:刺青(入れ墨)への禁令が解かれ、軍国主義体制の終焉と共に刺青が違法行為ではなくなります。

[世界が注目する日本のタトゥーカルチャー:刺青文化]

現代において欧米から注目されている日本の華美な刺青(入れ墨)文化は江戸時代中期に確立されたものと考えられています。
江戸や大阪などの大都市に人口が集中し始め、犯罪者が多数発生するようになったため、犯罪の抑止を図る目的で町人に対する入れ墨刑が用いられますが、容易には消えない刺青(入れ墨)の特性が一般的に再認識された事で、その身体装飾=ファッションへの応用が復活してゆきました。

日本の華美な刺青

江戸時代に入れ墨(刺青、タトゥー)が犯罪者のための刑罰として転用されるようになり、江戸において初犯の場合は左腕に2本のライン状に、再犯の場合には3本のライン状の入れ墨が施されておりました。 入れ墨刑の様式は地方によって特色が有り、紀州国では腕に「悪」の文字の入れ墨を、京都では腕に「╲╲」斜め線二本線の入れ墨(長さ約5cm)、長州国では腕に「◇」の形の入れ墨を、 佐渡島では腕に「サ」のカタカナ文字で入れ墨を 、紀州国では腕に「悪」の文字で刺青を施されました。 筑前国や安芸国では一度目の犯罪では「一」が額に彫られ、2回目が「ナ」に、三回目が「大」に、さらに「犬」4回目の犯罪では「犬」の文字の入れ墨へと彫り足されていったそうです。 その他、高野山では額に「●」が彫られ、肥前国では額に「×」印の入れ墨が彫られていました。 一説によりますと、江戸末期に政治が乱れて食い詰め、やむなく犯罪に走る市民が多くなり、上記のような入れ墨刑(腕に2本線、 3本線)を施された人達が、その痕跡を隠すために競って華美な刺青でカバーアップを施した事が後の入れ墨ブームに繋がったと言われております。

遊郭などにおいては、遊女が 馴染みとなった客への気持ちを表現する手段として、「○○命」といった刺青(入れ墨)を施す「入黒子」と呼ばれた表現方法が流行。
刺青の他にも、放爪(爪を剥い で贈る)・誓詞・断髪・切指(指を切って贈る)・貫肉といった、遊女による独特の愛情表現が存在しました。
こうした文化の一部は現在まで引き継がれており、 「○○命」といった刺青(入れ墨)を施す行為は、レズビアン関係にある女子高生などの間で、昭和期に流行した事があり、「○○命」のフレーズは男性の間でも広く使われる日常的表現として定着してしたそうです。
こうした風潮に伴って、古代の船乗りから継承された漁民の入れ墨や、経文や仏像を身体に刻む密教系僧侶の入れ墨といった、様々な入れ墨=刺青文化が江戸時代の各都市で交わり合い、それがさらに歌川国芳などの天才浮世絵師の技法を取り入れながら洗練されてゆきました。

装飾用途の入れ墨(刺青)は入墨刑とは明確に区別され、文身と呼ばれる事が一般的で、江戸火消し、鳶、大工、職人、武家の次男坊、町人などが独特の美学である『粋』を見せるために好んで施されてゆきます。

背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など、浮世絵の中の登場人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれました。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵と絵を繋げる日本入れ墨(刺青)独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな日本の伝統刺青の技法は、この時代に完成されてゆきます。 19世紀に入ると入れ墨(刺青)の流行は極限まで達し、博徒、火消し、鳶、飛脚、大工、漁師、渡り舟の船頭など、肌を露出する職業では、刺青をしていなければむしろ恥であると見なされるほどの流行になります。

江戸幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まりますが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及して行き、旗本やご家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、刺青を施す者が現れるようになり、デザインにも「武家彫り」や「博徒彫り」といった出身身分の違いが投影されてゆきます。やがては刺青を入れた大名や奉行まで現れるようになり、幕府を慌てさせたという形跡も見られます。 また、当時の武士階級の間では、刺青のある身体を斬る事に対して、その呪術性への恐れから生じた忌避感情が存在していた事も記録されており、市中では帯刀できない町人にとって、刃傷沙汰を避ける自衛策として大流行しました。 出漁中に事故に遭う可能性のある漁師が、身元判定のために入れ墨(刺青)を施したケース(類似ケースとして、木場の川並達が好んで入れていた「深川彫」など)も流行しました。

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